第11話 九条兼実との出会い

 一一八六年、京都大原の勝林院で行なわれた世にいう「大原問答」を通じて法然上人の名声が京都中に知れ渡りました。ちょうどこの頃から法然上人と、摂政・藤原長者つまり時の最高権力者の地位にあった九条兼実との親交が始まります。
 九条兼実(一一四九~一二〇七)は当時の摂政・関白であった藤原忠通の三男として生を受け、一一五八年に元服し、一一六四年には十六歳で内大臣となります。一一七四年には二十六歳で従一位となり政治の中枢で活躍するようになります。この頃は平清盛をはじめとする平家一門が政権を握っており、さらに後白河法皇が虎視眈々と政権奪取の機会を狙っていた時代でしたが、兼実は平家一門とも後白河法皇とも距離を置き続けました。源平争乱を経て源頼朝が政権を掌握すると、兼実は源頼朝の強い推挙を受け一一八六年に摂政・藤原氏長者になり、一一八九年には太政大臣に就き、朝廷の第一人者となります。しかしまだ後白河法皇が健在で、兼実はその立場とは裏腹に政治の舞台では孤立していたようです。一一九二年に後白河法皇が崩御すると、兼実は源頼朝に対して征夷大将軍を宣下するなど積極的な政治活動を行ないます。この時に実の弟の慈円が天台座主に推挙されていますが、ここにも兼実や源頼朝の政治的な圧力が大きく作用していると考えられます。しかし後鳥羽上皇の内宮問題でついに源頼朝と対立し、また朝廷内にあっても様々な政敵が現れ、ついに一一九六年に関白の地位を追われることとなります。政治の表舞台から失脚した兼実ですが、実の弟の慈円が比叡山で座主になっていたこともあり、当時の仏教界で大きな発言力を持っていたようです。また兼実は当代随一の文化人であり、『千載和歌集』を編纂した藤原俊成や『新古今和歌集』を編纂した藤原定家親子らを庇護し、自身も四十年に渡って書き続けた日記である『玉葉』が平安末期から鎌倉初期を研究する際に不可欠な第一級の資料として今に伝わっています。
 一方、私生活では将来が有望視されていた長男、内大臣良通が若くしてこの世を去り、哀しみの中で次男、良経の教育に尽力します。その後、良経が摂政太政大臣に就きますが、三十八歳で急死します。すると兼実は孫にあたる道家の教育に専念し、その結果、兼実の血統は明治維新まで摂関家として脈々と続くこととなりました。その後、兼実は一二〇二年に法然上人を戒師として出家して「円証」と号し、一二〇七年に五十九歳でこの世を去ります。兼実の墓所は紅葉で有名な東福寺の境内に今も残っています。

 法然上人と九条兼実との出会いは一一八六年頃、つまり兼実が摂政に就きまだ政治の中枢にいた頃のことでした。それから一二〇七年に兼実がこの世を去るまでの約二十年間、両者は時には師弟として、時には親友として、本当に仲睦まじく共に信頼しあった関係が続きました。兼実の日記『玉葉』の中には、法然上人と兼実とが会話を交わした記事が十箇所ほど書かれています。兼実はしばしば法然上人を邸宅に呼び、お念仏の話を聞いたり、また上人から直接に戒を授かったりするなどしていました。法然上人は兼実のみならず、孫の良経や兼実の娘にあたる宜秋門院(後鳥羽上皇の中宮)にも戒を授けていますが、これらはいずれも兼実の意向によるものでしょう。この時代、高僧から戒を受けると長寿になり、さらに後世には浄土に往生できると考えられていました。法然上人は比叡山の中でただ一人の正統的な戒の相伝者でもあったことから、兼実は法然上人から親しくお念仏の教えを受けながら、さらに法然上人を戒師として幾度も授戒していました。
 兼実が政治の舞台から失脚した時も、また可愛がった子供や孫に夭折され人生の悲哀の中に落ち込んでいた時も、法然上人はいつも兼実の話を聞き、そしてお念仏の教えを説き示していたそうです。また兼実と源頼朝の関係を考えれば法然上人の弟子の中に鎌倉の武士の姿が多く目に付くことは首肯できますし、兼実と弟の慈円の関係を考えれば天台宗の僧侶たちが法然上人を厳しく批判した時も座主の慈円が法然上人を擁護したことも理解できます。このように兼実はその豊富な人脈を充分に活かしつつ、自らが心から帰依した法然上人を生涯に渡って護り続けたのです。
 一二〇四年に兼実は自らの死期が近いことを感じ、娘の宜秋門院に土地の譲り状(今で言えば生前の遺産分与)を与えています。この時、兼実は自らのことを「念仏沙弥」(念仏信仰の在家信者)と書き記しています。実はこの時の譲り状で兼実から宜秋門院へと譲られた土地は現在の神奈川県川崎市井田のあたりです。現在この地には、私の大学の恩師である金子寛哉先生がご住職をされている善教寺がございます。今から八百年前に法然上人の教えのまま自らを「念仏沙弥」と称した兼実が遺産分与として娘に与えた土地が、今は恩師のお寺となり、そしてその土地で恩師とともに兼実が法然上人に執筆を強く要請したことで完成した『選択集』の研究を行なっていたことに、つくづく歴史の不思議さを実感します。
兼実は世間体などから法然上人を庇護したのではなく、本当に自らの念仏の、そして人生の師として尊敬し、法然上人も兼実のことを単なる良き理解者としてではなく、同じ念仏の信仰者として、そして一人の大切な親友として心から信頼していたのでしょう。法然上人が兼実と今生の別れをした際に、兼実に「露の身は、ここかしこにて消えぬとも、心は同じ華の台ぞ」という一首を贈っています。この和歌は「この世の儚い命は別々のところで終わってしまうかもしれませんが、我々の心は次の世は極楽浄土でひとつ同じ蓮の台の上で必ず再会することができると信じ合っております」という意味です。ここには裏切りや嘘偽りなど何一つなく、本当に腹の底から信頼し合った人間同士の友情に包まれた世界だけが広がっているような気がします。


第12話 東大寺講説

 いつの時代も戦乱は多くの被害をもたらします。法然上人が活躍した時代は平安末期から鎌倉初期、時あたかも源平の争乱の真っ只中でした。奈良の東大寺も焼け落ちてしまいました。政権が平家から源氏に移行し、やや時代が落ち着きを取り戻した頃、早速に東大寺の復興がはじまりました。とはいえ平安時代から鎌倉時代に変わったばかりの頃のことでもあり、貴族も武家も経済状況は極めて逼迫しておりました。このような時代で奈良の大仏を再建するとはいっても、なかなか資金や材木が集まりません。しかし大仏再建のためには莫大な費用と材木が必要です。そこで東大寺は奈良時代に行基が大仏建立に尽力したことを参考にして、当時、もっとも著名で、そして広く人々から信仰を集めていた人物に大仏再建を依託することを考えました。一説では最初に東大寺が指名した人物は、法然上人であったとも伝えられています。しかしながら法然上人は「自分は大仏を建立するような器量を持ち合わせていない」と言い、また貴族や武家との経済的な交渉を遠慮し、東大寺からの依頼を断りました。次に東大寺は重源という人物に大仏再建を依頼し、この重源がその依頼を受け大仏再建に乗り出しました。そして東大寺大仏殿もほぼ完成した頃、重源が法然上人に「新築した東大寺大仏殿の前で何か講義をして欲しい」とお願いをしました。この話を受けた法然上人は、早速に東大寺に赴き講義をしました。この時の講義の内容は「浄土三部経」の内容全般に関するものであったと伝えられています。この「浄土三部経」の講義の中で、法然上人はそれまでの仏教ではまったく指摘されることがなかった様々なお話をしています。たとえば平安末期から鎌倉初期という時代では、女性の社会的地位も立場も保障されておらず、仏教界も一般の女性に対して積極的な布教などはあまり行なっていませんでした。ところが法然上人はご縁があった多くの宮中の女官や武家の奥方などにもお手紙を送り、この手紙を通じてお念仏のみ教えと阿弥陀様のお救いを説き示していました。法然上人は東大寺大仏殿でもこの自説を強固に主張し、「女性は多くの悩みや苦しみの中で生きているではないか。阿弥陀様はこの世の中のあらゆる女性をも一人として漏らすことなく、必ずお救いになる仏様なのだ」と明言しました。これを聞いた東大寺や興福寺の僧侶たちは心から驚いたことでしょう。また市井に生きる女性たちは法然上人のこの言葉にどれほど勇気付けられたことでしょう。