第13話 逆修法会の実施と『選択集』の撰述

 この東大寺大仏殿の講義によって法然上人の名声は京都でもますます広がっていきました。ちょうどこの頃、後白河上皇や一部の有力貴族たちが競うように行なっていた仏教儀礼がありました。それは「逆修法会」という、今でいう生前葬のようなもので、大勢の僧侶を二ヶ月から三ヶ月ほど毎日、自らの邸宅に特別に建立した持仏堂に集め、仏教の教えを受けるという内容でした。法然上人も外記禅門という人物の要請で、この逆修法会を執り行っています。この外記禅門という人物は、おそらく秘書官のような職務で宮中に仕える人物であり、そして仏教にも深い理解と見識を有していた人物であったものと思われます。今でも法然上人が行なった逆修法会の説教の内容をまとめた本が『逆修説法』という名称で残っていますが、これが本当に一般の信者の方に対して語った内容かと思うほどに多岐な話題のもと、お念仏と阿弥陀様のお救いに関して詳細なお話があったようです。
 これら東大寺大仏殿で行なわれた「浄土三部経」の講義録と、外記禅門という人物に対して行なった『逆修説法』を読みますと、法然上人のお考えがどのように推移しながら畢生の大著ともいわれている『選択集』に到達したかということが明らかになってきます。この『選択集』により、法然上人はご自身のお念仏の考えを完全に体系化することとなるのです。
 浄土宗の学問である浄土宗学を専門にしている者にとって『選択集』の研究はどうしても避けて通ることができません。しかし最初から『選択集』の研究に着手するにしては、『選択集』という本は余りにも難解で到底、読み解くことができないのです。ですから大学院時代から、まず『選択集』が自らのベースとした『観経疏』の研究を行い、またここ十年ほどは浄土三部経の研究も進め、昨年あたりからようやく『選択集』の研究に着手することができてきました。なぜ、たった一冊の本を読むために、これほどの準備が必要かと申しますと、第一に法然上人が文字通りに天才であるということ、第二にその法然上人が自分の言いたいことのエッセンスだけを書き記した本が『選択集』であるということ、第三に『選択集』は一見すれば実に分かりやすい内容になっており、その論旨の展開が単純すぎるが故に、背後にある思想を読み取りにくいことが挙げられます。さらにもうひとつ『選択集』の研究が困難な理由があります。それは法然上人がご自身で筆を取って書いた『選択集』が残っていないということです。ですから専門的に『選択集』を読む場合には、常に数種類の写本を校合しながら読んでいかなければならないのです。この作業も本当に時間がかかります。しかし、このような様々な手続きを経ることで、八百年もの間、『選択集』の中に閉じこもっていた法然上人の肉声が少しずつ現れてくるような気がします。

 さて『選択集』ですが、詳しくは『選択本願念仏集』といい、冒頭で「南無阿彌陀佛。徃生之業、念佛爲先。」(〔私は〕阿弥陀仏〔一仏〕に〔心から〕帰依したてまつり、〔その聖なる御名を称えたてまつる〕。〔阿弥陀仏の極楽浄土に〕往生する〔ことを目的とする〕実践行は、〔いかなる行ないよりも、まず称名〕念仏〔の一行のみ〕を先とする〔べきである〕。)と説いた上で、「誰しもが、南無阿弥陀仏と称えれば、必ず阿弥陀様の御救いを受け、極楽世界に往生することができる」ということを全十六章に渡って詳細に説かれています。法然上人の説くお念仏の教えは、この「誰しもが必ず往生する」という一点においてこそ、宗教の極致であり得るのです。法然上人は人生の悲哀と苦悩の中で「真実の仏教とは何か」と問い続け、そして人の一生分の時間をかけて阿弥陀様の救いにたどり着きました。この阿弥陀様の救いこそ、混迷極まる時代の中で、その時代の流れに呑み込まれ押し流されている全ての人々が一人として漏れ落ちることがない宗教なのです。これこそが八百年に渡って『選択集』が説き続けてきた真実の仏教であり、この阿弥陀様の救いを法然上人は浄土宗としてお示しになられたのです。
 『選択集』を完成してから間もなく、法然上人は夢中にて善導大師と対面することとなります。今でこそ夢はフロイト流に深層心理のお告げと解釈しがちですが、昔の人にとって夢は現実以上に重要なことであり、特に夢の中で神や仏や聖僧に対面することは、真理を直伝されるということを意味していました。法然上人の夢の中に現れた善導大師は下半身が金色に輝き、「そなたが専修念仏の教えを説き弘めることは実に尊いことである。そのことを証明するために、私はそなたの夢の中に現れたのだ」と言い、お念仏の教えを要約した偈文を法然上人に伝えました。
 善導大師は、このように自らの半金色の姿として法然上人の前に現れることで、法然上人の教えが自らの教えと一点の間違いもないこと、法然上人の信仰に一点の曇りもないこと、阿弥陀様の救済が間違いなき真実であること、すべての人々がお念仏のみで極楽世界に往生できることを、直々に相伝するとともに印可を与えたのです。この善導大師と法然上人の出会いを「二祖対面」といい、浄土宗では特に大切な出来事として受け止めています。法然上人は善導大師の著作から教えを受けたとともに、善導大師から直接の教えを受けてもいるのです。
 この時空を超越したお二人の対面こそ、その後の法然上人のお考えに決定的な変化を与えるとともに、「阿弥陀様の救済」という浄土宗の教えが間違えなき宗教的事実であり、宗教的真実でもあり、私達が信じるべきただ唯一の教えであることの大きな根拠でもあるのです。


第14話 度重なる苦難

 いつの間にか比叡山を下りてから三十年が経過し、法然上人は七十歳を超えていました。この三十年間で法然上人を中心とした阿弥陀様を信仰する教団を形成され、やがて比叡山や南都側がその存在を脅威と感じるほどに拡大していきます。比叡山や南都から見れば、かつて天才と謳われつつも比叡山を去り今は老境に入った法然上人が脅威の核心的存在だったのかもしれません。三十年という時間は、法然上人の社会的な立場を大きく変えた時間でもありました。七十歳を超えた法然上人とその周囲を取り巻く環境は、極めて厳しい状況になりつつありました。
 元久元(一二〇四)年、上人が七二歳の時、ついに比叡山が法然上人に対して宗教的弾圧を企て、天台宗の僧侶たちが座主の真性に念仏停止を訴えました。上人はこの危機的状況を回避するために「七箇条起請文」を作成して門弟に節度ある言動を求めると同時に、天台座主に対して自らの言動に他意がないことを表明しました。
 元久二(一二〇五)年には南都の興福寺が法然上人に対する大変に厳しい内容の批判を後鳥羽上皇に提出しました。この批判文を「興福寺奏上」といいますが、原案は当時を代表する碩学である解脱房貞慶が作成しました。
 このように法然上人を中心とした教団は比叡山や南都から厳しい批判を受けつつも、自らの信仰を捨てることなく毎日を過ごしていました。
 ところが建永元(一二〇六)年十二月、当時京都で美声の持ち主として名高かった法然上人の門弟の住蓮と安楽房遵西が京都鹿ヶ谷の草庵で催した別時念仏で六時礼讃を勤めた折、後鳥羽上皇に仕える宮中の女房の松虫と鈴虫の両名がこの世の無常を哀しむと同時に極楽浄土の情景に思いを馳せ、ついに住蓮と安楽に出家を哀願しました。そして住蓮と安楽が松虫と鈴虫を上皇に無断で出家させ、上皇の逆鱗に触れるという事件が起こりました。激高した上皇は、住蓮を近江(滋賀県)の馬渕畷で、安楽を六条河原で処刑してしまいます。さらに法然上人と高弟たちにも流罪を言い渡します。法然上人がこれまでに体験したことがない非常に厳しい処置が下されました。
 松虫と鈴虫が出家を願い出た背景には、複雑な人間関係や権力争いが渦巻く宮中での生活に疲れ果て、一人の女性として静かに生きていきたいという強い望みがあったのかもしれません。そして住蓮と安楽は両者の生々しい苦悩を理解したからこそ、剃髪に及んだのでしょう。後に法然上人が処刑された二人の弟子を偲び、二人の名を寺名とした庵が安楽寺です。安楽寺は二人の女性の苦悩、二人の弟子の菩提、そして法然上人の流罪という哀しい歴史の中で建立された寺院でした。
 ついに法然上人は四国流罪の身となり、鳥羽の湊から数名の弟子とともに船で旅立っていったのです。