第13話 逆修法会の実施と『選択集』の撰述

 この東大寺大仏殿の講義によって法然さまの名声はますます広がっていきました。ちょうどこの頃、後白河上皇や一部の有力貴族たちが競うように行なっていた仏教儀礼がありました。それは「逆修法会」という、今でいう生前葬のようなもので、大勢の僧侶を二ヶ月から三ヶ月ほど毎日、自らの邸宅に特別に建立した持仏堂に集め、仏教の法門を授かるというものでした。法然さまも外記禅門という人物の要請で、この逆修法会を執り行っています。この外記禅門という人物は、おそらく秘書官のような職務で宮中に仕える人物であり、そして仏教にも深い理解と見識を有していた人物であったものと思われます。今でも法然さまが行なった逆修法会の説教の内容をまとめた本が『逆修説法』という名称で残っていますが、これが本当に一般の信者の方に対して語った内容かと思うほどに多岐な話題のもと、お念仏と阿弥陀様のお救いに関して詳細なお話があったようです。

 これら東大寺大仏殿で行なわれた「浄土三部経」の講義録と、外記禅門という人物に対して行なった『逆修説法』を読みますと、法然さまのお考えがどのように推移しながら畢生の大著ともいわれている『選択集』に到達したかということが明らかになってきます。この『選択集』により、法然さまはご自身のお念仏の考えを完全に体系化することとなります。

 さて『選択集』ですが、詳しくは『選択本願念仏集』といい、冒頭で「南無阿弥陀仏。往生之業、念仏為先。」(私は阿弥陀仏一仏に心から帰依したてまつり、その聖なる御名をとなえたてまつる。阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを目的とする実践行は、いかなる行ないよりも、まず称名念仏の一行のみを先とするべきである)と説いた上で、「誰しもが、南無阿弥陀仏ととなえれば、必ず阿弥陀様の御救いを受け、極楽世界に往生することができる」ということを全十六章に渡って詳細に説かれています。法然さまの説くお念仏の教えは、この「誰しもが必ず往生する」という一点においてこそ、宗教の極致であり得るのです。法然さまは人生の悲哀と苦悩の中で「真実の仏教とは何か」と問い続け、そして人の一生分の時間をかけて阿弥陀様の救いにたどり着きました。この阿弥陀様の救いこそ、混迷極まる時代の中で、その時代の流れに呑み込まれ押し流されているすべての人々が一人として漏れ落ちることがない宗教なのです。これこそが八百年に渡って『選択集』が説き続けてきた真実の仏教であり、この阿弥陀様の救いを法然さまは浄土宗としてお示しになられたのです。

 法然さまが説くところのお念仏とは「選択本願念仏」というお念仏です。阿弥陀様が四十八願の建立に際して、第十八願に「私の名前を呼べば、その者は必ず極楽世界に往生させよう」という誓願を立てました。この時、阿弥陀様は二百一十億という数にのぼる諸仏の世界の中から、誰しもが必ず往生することができる実践行を、自らの意志において選択しているのです。ですから、私たちがおとなえするお念仏は、単なる思い付きなどではありません。阿弥陀様が私たちを自らに向かせるべく、そして阿弥陀様が私たちを救済するために、どこまでも阿弥陀様自らの意志において選択された実践行なのです。選択本願念仏とは「阿弥陀様の聖なるお名前を声に出してとなえる」という実践行であり、この実践行が成立するすべての根拠が阿弥陀様の本願です。

 日々、私たちが口々におとなえしている「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀様が私たちに与えてくださった「最高の善い行ない」であり、また「無限の功徳」に他なりません。これこそが法然さまの主著たる『選択本願念仏集』の論旨であるとともに、法然さまがたどり着いたしたお念仏の世界そのものです。だからこそ私たちはお念仏のただ一行のみを修し、この一行のみで極楽世界に往生できることを信じ、お念仏の一行に我が身のすべてを託すのです。

 『選択集』を完成してから間もなく、法然さまは夢中にて善導大師と対面することとなります。今でこそ夢はフロイト流に深層心理のお告げと解釈しがちですが、昔の人にとって夢は現実以上に重要なことであり、特に夢の中で神や仏や聖僧に対面することは、真理を直伝されるということを意味していました。法然さまの夢の中に現れた善導大師は下半身が金色に輝き、「そなたが専修念仏の教えを説き弘めることは実に尊いことである。そのことを証明するために、私はそなたの夢の中に現れたのだ」と言い、お念仏の教えを要約した偈文を法然さまに伝えました。

 善導大師は、このように自らの半金色の姿として法然さまの前に現れることで、法然さまの教えが自らの教えと一点の間違いもないこと、法然さまの信仰に一点の曇りもないこと、阿弥陀様の救済が間違いなき真実であること、すべての人々がお念仏のみで極楽世界に往生できることを、直々に相伝するとともに印可を与えました。この善導大師と法然さまの出会いを「二祖対面」といい、浄土宗では特に大切な出来事として受け止めています。法然さまは善導大師の著作から教えを受けたとともに、善導大師から直接の教えを受けてもいます。

 この時空を超越したお二人の対面こそ、その後の法然さまのお考えに決定的な変化を与えるとともに、「阿弥陀様の救済」という浄土宗の教えが間違いのない宗教的真実であり、私たちが信じるべきただ唯一の教えであることの大きな根拠でもあります。


第14話 度重なる苦難

 いつの間にか比叡山を下りてから三十年が経過し、法然さまは七十歳を超えていました。この三十年間で法然さまを中心とした阿弥陀様を信仰する教団が形成され、やがて比叡山や南都側がその存在を脅威と感じるほどに拡大していきます。比叡山や南都から見れば、かつて天才と謳われつつも比叡山を去り今は老境に入った法然さまが脅威だったのかもしれません。三十年という時間は、法然さまの社会的な立場を大きく変えた時間でもあり、七十歳を超えた法然さまとその周囲を取り巻く環境は、極めて厳しい状況になりつつありました。

 元久元年、法然さまが七十二歳の時、ついに比叡山が法然さまに対して宗教的な弾圧を企て、天台宗の僧侶たちが座主の真性に念仏停止を訴えました。
法然さまはこの危機的状況を回避するために「七箇条起請文」を作成して門弟に節度ある言動を求めると同時に、天台座主に対して自らの言動に他意がないことを表明しました。
 元久二年には南都の興福寺が法然さまに対する大変に厳しい内容の批判を後鳥羽上皇に提出しました。この批判文を「興福寺奏上」といいますが、原案は当時を代表する碩学である解脱房貞慶が作成しました。

 このように法然さまを中心とした教団は比叡山や南都から厳しい批判を受けつつも、自らの信仰を捨てることなく毎日を過ごしていました。

 ところが建永元年十二月、当時京都で美声の持ち主として名高かった法然さまの門弟の住蓮と安楽房遵西が京都鹿ヶ谷の草庵で催した別時念仏で六時礼讃を勤めた折、後鳥羽上皇に仕える宮中の女房の松虫と鈴虫の両名がこの世の無常を哀しむと同時に極楽浄土の情景に思いを馳せ、ついに住蓮と安楽に出家を哀願しました。そして住蓮と安楽が松虫と鈴虫を上皇に無断で出家させ、上皇の逆鱗に触れるという事件が起こりました。激高した上皇は、住蓮を近江(滋賀県)の馬渕畷で、安楽を六条河原で処刑してしまいます。さらに法然さまと高弟たちにも流罪を言い渡します。法然さまがこれまでに体験したことがない非常に厳しい処置が下されました。

 松虫と鈴虫が出家を願い出た背景には、複雑な人間関係や権力争いが渦巻く宮中での生活に疲れ果て、一人の女性として静かに生きていきたいという強い望みがあったのかもしれません。そして住蓮と安楽は両者の生々しい苦悩を理解したからこそ、剃髪に及んだのでしょう。後に法然さまが処刑された二人の弟子を偲び、二人の名を寺名とした庵が安楽寺です。今も安楽寺には松虫・鈴虫・住連・安楽の四名の肖像画、松虫・鈴虫の剃髪の図、住連・安楽の発端から法然さまの流罪までを絵解きしている安楽寺縁起絵、絶世の美女であった小野小町の肉体が死後に見るも無残な姿へと腐乱していく様子を描いた小野小町九相図など、多くの什物が伝えられています。特に松虫・鈴虫の剃髪の図は、住連・安楽が松虫・鈴虫を剃髪する場面を描いた一対の掛け軸ですが、剃髪の場面を描いた作品は極めて珍しく、一対の絵から四名それぞれの強い決意が表れています。安楽寺は二人の女性の苦悩、二人の弟子の死罪、そして法然さまの流罪という哀しい歴史の中で建立された寺院でした。

 住蓮と安楽の事件の余波を受け、法然さまにも四国への流罪が言い渡されました。当時は僧侶が刑罰を受けるときには還俗といって俗名になることが慣わしでした。法然さまも形式だけでも改名を余儀なくされ、藤井元彦という俗名で流罪になり、鳥羽の湊から数名の弟子とともに船で旅立っていかれました。