第3話 奈義の菩提寺

 観覚のもとに身を寄せた勢至丸のことを、観覚はしばらく静観していました。内心は、「さて、この子の将来をどのようにしたらよいものか...」と悩んでいたことでしょう。当の勢至丸も毎日を敵への恨みと、致し方ない人生にとまどうばかりであったことでしょう。おそらく心の中では、一瞬にして家族の幸せを奪い去った明石定明への復讐の思いで一杯だったかもしれません。しかし観覚は勢至丸の心の中にある争いの思いを見抜き、「決して仇を討ってはならない。相手を恨めば、その報いとしてまた相手から恨まれるだけだという父上の遺訓を忘れたのか」と勢至丸を強く誡めたことでしょう。

 観覚に諭され自らの過ちを知った勢至丸は、次第に仏教の教えの中に自らが生きていく道を求めはじめました。この頃の勢至丸は「人々はなぜ争うのか?どうしたら人々の争いはなくなるのか?」という疑問をお釈迦様の教えにぶつけていたのでしょう。

 観覚は奈良で本格的に仏教の勉強を修めた人物でした。ある日、観覚が勢至丸に天台宗の教えについて講義をしていると、勢至丸が不思議そうな顔をして「どうしてこういう理解をするのか分からない」と疑問をもらしました。その言葉を聞いた観覚は「この疑問はまだ解決されていない大問題だが、この子は一度見ただけでこの問題のすべてを見抜いているようだ」と驚愕します。

 この様子を目の当たりにした観覚は「この子は天才だ。この子は私の力量をはるかに凌いでいる」と言い、勢至丸を仏教研究の最高峰であった比叡山で勉強させることにしました。


第4話 比叡山

 観覚は以前から親交があった持宝房源光に勢至丸を預けます。この時、観覚は源光上人に「偉大なる智慧の菩薩である文殊様をおとどけします」という紹介状一通を勢至丸に持たせたそうです。この一通の紹介状に、観覚の勢至丸の未来と将来に対する強い思いがあります。通常の紹介状ならば出身などを詳しく書くところでしょうが、例の夜襲の一件があり、観覚は勢至丸に身の上を書くことができなかったのかもしれません。そこで観覚が、勢至丸の才能にすべてを賭け、忌まわしき過去から勢至丸を解き放つために、この書状を書いたと思われます。観覚は勢至丸にとって文字通りの恩人であったといえるでしょう。

 勢至丸は源光上人のもとで二年ほど仏教の勉強を続けますが、さらに深くお釈迦様の教えを究めるために出家して本格的な修行の道を歩む決意をします。勢至丸の才能を見抜いた源光上人は、自分では勢至丸の才能を大きく伸ばすことができないと思い、勢至丸を当時の比叡山で密教の大家として有名であった皇円阿闍梨に預けることにしました。そして勢至丸は皇円阿闍梨のもとで本格的な僧侶としての生活を始めることとなりました。観覚が勢至丸を源光上人に預けたことが、勢至丸にとって第一の大きな機縁ならば、次に源光上人が勢至丸を皇円阿闍梨に預けたことが、第二の大きな機縁ともいえるでしょう。

 その後三年間、天台宗の勉強に研鑽します。この時、皇円阿闍梨は勢至丸のことを「この者はやがて比叡山第一の大学者となり、天台宗の座主にまで出世する大器である」と評しています。