第7話 立教開宗の前夜

 法然さまのこの「すべての人は悩み苦しみ、覚ることはできない」という自覚は、再度、法然さま自身を深い思索へと誘うこととなります。「覚ることができず、この世界で苦しみもがいている私たちは、一体どうすればよいのか?」と自問し、この世界のあらゆる人々が必ずこの現実の苦しみから永遠に離れることができる教えを模索する日が始まりました。

 法然さまが仏の教えを深く学べば学ぶほど、自らがこの身このままで仏であることも、またお釈迦様のように覚りを開くことも、実はそれらすべてが絶望的なことであることを我が身で知るばかりの日が続きます。それでも法然さまは、お釈迦様の教えの中にすべての人々が人生の悲哀と苦悩から離れ、必ず救われる道を得る方法があると信じ、そして求め続けました。しかし様々なお経を見ても、覚りの境地の様子は詳細に説かれてあっても、自らが切望する「すべての人が救われる教え」はなかなか見つかりませんでした。

 仏教には多くのお経や論書があります。数多あるお経や論書の中でも、「この世界に生きる人は、誰一人として自らの力では覚りを開くことができない」という発言は、中国の唐の時代に長安で活躍した善導大師の著作にしか見ることができません。善導大師は「この世のすべての人はみな悩み苦しむ凡夫であり、阿弥陀様はすべての凡夫を救済する仏様である。私たちは阿弥陀様のお救いを受ける以外には、この苦しみから離れられる方法は有り得ないのだ」ということを強く主張しています。

 法然さまは比叡山の大先輩にあたる恵心僧都源信の『往生要集』に導かれ、阿弥陀様の救いを説き示した浄土教に強い関心を持つようになり、『往生要集』が引用した多数のお経や論書をすべて実際に手に取って幾度も通読しました。そしてある日、まさに運命的に、善導大師の主著とも言うべき『観経疏』に出逢うことになります。

 来る日も来る日もお経や論書の頁をめくり、幾度も一切経を端から端まで精査した法然さまは、ついに「自らこれまで多くの罪を犯し、今生まで苦しみの世界を彷徨い続けてきたこの私が、今こそ阿弥陀様のお名前をとなえることによって、阿弥陀様の本願のお救いを受け、極楽世界に往生することができる」という善導大師の教えに出逢い、そして善導大師の言葉の真意、さらには阿弥陀様の本願の本意を受け取りました。この時のことを法然さまは自ら「善導大師の『観経疏』に出逢い、そして一心専念弥陀名号の文章を目の当たりにした時、これこそが今まで私が探し求めてきた教えであると声をあげ、喜びのあまりに感涙にむせぶばかりであった。あの日以来、私は阿弥陀様と関わりがないあらゆる修行を捨て去り、ただひたすらお念仏のみとなえる身になったのである」と述懐しています。

 この「一心専念弥陀名号の文章」とは、「一心にただひたすら阿弥陀様の名号のみを念じて、いつでもどこでも日常生活のすべてにおいて、阿弥陀様の名号をとなえ続けることを正定の業と名付ける。なぜならばこのことだけが阿弥陀様の本願で誓われた唯一の実践行であるのだから」という一文です。この一文を目の当たりにした法然さまの全身に激しい衝撃が走りました。「どうすれば往生できるかなどと問う必要もなかったのだ。すでに阿弥陀様が《今ここで我が名をとなえよ》と仰せになっている。そうか、そうだったのか。この罪深き我が身を救うために仏となった阿弥陀様が、この私を間違いなく救ってくださるのだ」と。このことが分かった瞬間、法然さまの目の前に救いの教えの法門が開きました。この救いの教えの法門こそ、阿弥陀様がすべての人々を救う教え、すなわち浄土宗であります。
「今、ここでお念仏をとなえる我が身こそが、阿弥陀様に必ず救われる」という絶対的な確信が、法然さまにこの世界を生きる意味と意義を与え、浄土宗を開くことを決意させました。


第8話 浄土宗の立教開宗

『観経疏』を通じて善導大師の教えを知った法然さまは、「お念仏をおとなえすれば、誰でもがこの身このまま阿弥陀様のお救いをいただき、そして次の世では必ず極楽浄土に往生させていただくことができる」という揺るぎない宗教的確信を得ました。

 阿弥陀様のお救いを確信した法然さまは「もう比叡山でひとり修行する時期は終わった。私はこの阿弥陀様のお救いを一刻も早く人々に伝えねばならない」という思いのもと、若い頃から修行を続け慣れ親しんだ比叡山を下りる決意をしました。

 この法然さまの強い意志は、法然さまの人生とともに幕をおろしたわけではありません。むしろ法然さまが極楽浄土に往生されてから後に、ゆっくりですが確実に日本人の心・日本の文化・日本の風土に浸透していきました。今でも私たちが自分だけの力ではもはやどうにもすることができないとき、あるときは心の中で、あるときは掌を合わせて、自分以外の何か超越的な力に対して祈ることが多々あります。この日本人の霊性あるいは心性ともいうべきものの根底には、法然さまがお示しいただいた「お念仏を通じて誰もが必ず阿弥陀様のお救いをいただくことができる」というみ教えが流れているように感じます。

 さて八瀬の坂道をくだりひとり比叡山を後にした法然さまは、西山の広谷で静かにお念仏をとなえていた遊蓮房円照という人物を訪ねます。

 この円照という人物は、法然さまと同じように善導大師の教えに導かれてお念仏に励んでいた方です。残念なことに円照は法然さまと出会って間もなく亡くなりますが、臨終の時には法然さまが横に付き添い、円照の最期の一息まで共々にお念仏をとなえたと伝えられています。

 こうして比叡山を後にした法然さまは、おそらく再び比叡山にはのぼっていないと考えられます。浄土宗では法然さまが比叡山からおりた時を以て「浄土宗の立教開宗」としています。時に法然さまが四十三歳の春のことでした。