浄土宗のおつとめ~絵と意訳つき~
浄土宗の日常のお経を掲載します。
番号順で読むのが通常の流れです。(1~19)★印のところは、選択してどちらかを読むお経です。
最後の番号がない*マークのお経は日常勤行では通常読まれないお経ですがご紹介しています。
それぞれの偈文に、意訳と絵がついています。
一般の方々にわかりやすくすることを目的で作られました。
お経の内容を理解しやすく、イメージしやすくなると思いますので、是非親しみをこめて声に出してお経を称えてみてください。
この浄土宗のお勤めについては、『絵がある浄土宗のお勤め』として経本になっており、オンラインショップから購入できます。
1 香偈~こうげ~
願我身浄如香炉(がんがしんじょうにょこうろ)
私の身体が浄らかな香煙が立ちのぼる香炉のようでありますように
願我身如智慧火(がんがしんにょちえか)
私の心に智慧のともし火がともりますように
念念焚焼戒定香(ねんねんぼんじょうかいじょうこう)
み仏さまとの約束を守り 正しい道を歩み 西方極楽浄土に導かれますよう 香を焚きつづけ
供養十法三世仏(くようじっぽうさんぜぶ)
あらゆる世界と永遠の時代にいらっしゃる み仏さま ご先祖さまに 供養いたします
2 三宝礼 ~さんぼうらい~
一心敬礼 十法法界 常住仏(いっしんきょうらい じっぽうほうかい じょうじゅうぶ)
一心敬礼 十法法界 常住法(いっしんきょうらいじっぽうほうかいじょうじゅうほう)
一心敬礼 十法法界 常住僧(いっしんきょうらいじっぽうほうかいじょうじゅうそう)
仏...阿弥陀さま・お釈迦さま・諸々のみ仏さま
法...阿弥陀さまの、私たちを救いたいという願いを表したお経・お念仏
僧...そのみ仏の教えを信じて生きている人たち
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仏法僧(ぶっぽうそう)...この三つの繋がりを大切に思い 敬いましょう
3-1★ 四奉請~しぶじょう~
奉請十方如来入道場散華楽(ほうぜいしほうじょらいじとうちょうさんからく)
奉請釈迦如来入道場散華楽(ほうぜいせきゃじょらいじとうちょうさんからく)
奉請弥陀如来入道場散華楽(ほうぜいびたじょらいじとうちょうさんからく)
奉請観音勢至諸大菩薩入道場散華楽(ほうぜいかんにんせいししょたいほさじとうちょうさんからく)
すべてのみ仏さま お釈迦さま 阿弥陀さま 観音さま 勢至さま ご先祖さま
どうぞこの道場へ おいでください
わたしたちは華をまいて お迎えいたします
どうか み仏さまの お慈悲がありますように
*この四奉請か、次の三奉請のどちらかを読みます。
3-2★ 三奉請~さんぶじょう~
奉請弥陀世尊入道場(ぶじょうみだせそんにゅうどうじょう)
奉請釈迦如来入道場(ぶじょうしゃかにょらいにゅうどうじょう)
奉請十方如来入道場(ぶじょうじっぽうにょらいにゅうどうじょう)
阿弥陀さま お釈迦さま すべてのみ仏さま ご先祖さま
どうぞ この道場へおいでください
どうか み仏さまの お慈悲がありますように
*この三奉請か、前の四奉請のどちらかを読みます。
4 懺悔偈~さんげげ~
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
過去から今まで 私は数えきれないほどの罪をおかしてきました
皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)
それは私の中のむさぼり・いかり・おろかさによるものです
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
身・口・心から生じた わが罪を
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
今すべて包み隠さず み仏さまにお話しし お許しを願います
5 十念~じゅうねん~
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)
南無阿弥陀仏を十遍お称えすることを十念といいます
み仏さまの顔を拝み 阿弥陀さまのお救いを信じて 手を合わせ ただひたすらに「なむあみだぶつ」と懺悔の思いでお念仏を称えましょう
6 開経偈~かいきょうげ~
無上甚深微妙法 (むじょうじんじんみみょうほう)
百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)
我今見聞得受持 (がこんけんもんとくじゅ)
願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)
今 私がこうしてみ仏さまの教えに出会えたことは 本当に幸運なことです
さらに 教えを聞いて 学ばせていただけるご縁は 大変ありがたいことです
ゆえに み仏さまの教えを正しく理解し身につけられるよう 心から願います
<誦経~じゅきょう~>
ここで(開経偈の後)浄土三部経の『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』を読誦する【お経を称える】。※日常的には四誓偈(無量寿経の一節)を読誦します。
この浄土三部経には、「阿弥陀仏はどのような仏さまか?」「極楽浄土はどのような処なのか?」「お念仏を称えることの意味は?」ということが説かれています。
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西の方 十万億佛土の彼方に阿弥陀仏が建てられた「極楽浄土」があり、その国で今まさに、阿弥陀仏はお説法をされています。そして、阿弥陀仏のお慈悲に満ちた光明は、お念仏を称える私たちを包み、善き道へと導いてくださるのです。
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このように説かれていることから、私たちはその教えを信じ心におさめ、ただひたすらに手を合わせお念仏を称えるのです。読誦【お経を称える】とは、お経を目で読み、 声に出して耳で聞くことです。
7 四誓偈~しせいげ~
四誓偈は『仏説無量寿経』の中の一説です。
阿弥陀さまが、法蔵という名の菩薩の位の時に、我が国「極楽浄土」を建てて人々を救いたいとして起てた、四つの大切な誓願です。
阿弥陀さまの、わが名を呼ぶ者は皆もれなく救うとする大慈悲の誓いを信じ、私たちはお念仏を称えましょう。
一、私はこの世で誰も成し遂げ有れなかった四十八願をたて、必ずやこの誓願を達成して最高の悟りを開きます。これを達成できなかったら、私は誓って仏にはなりません。
二、私は永遠に大慈悲を施す者となり、貧苦にあえぐ人々を救います。これができなかったら、私は誓って仏にはなりません。
三、私が悟りを開き、すべてを救う最高の救い主として、国を超えて隅から隅まで聞かれるようにならないなら、私は誓って仏にはなりません。
四、なにものにも妨げられないみ仏さまの智慧の光が全てを照らすように、私の智慧の力もそれと等しくありたいと願います。
我建超世願(がごんちょうせがん)
必至無上道(ひっしむじょうどう)
斯願不満足(しがんふまんぞく)
誓不成正覚(せいふじょうしょうがく)
我於無量劫(がおむりょうこう)
不為大施主(ふいだいせしゅ)
普済諸貧苦(ふさいしょびんぐ)
誓不成正覚(せいふじょうしょうがく)
我至成仏道(がしじょうぶつどう)
名声超十方(みょうしょうちょうじっぽう)
究竟靡所聞(くきょうみしょもん)
誓不成正覚(せいふじょうしょうがく)
離欲深正念(りよくじんしょうねん)
浄慧修梵行(じょうえしゅぼんぎょう)
志求無上道(しぐむじょうどう)
為諸天人師(いしょてんにんし)
神力演大光(じんりきえんだいこう)
普照無際土(ふしょうむさいど)
消除三垢冥(しょうじょさんくみょう)
広済衆厄難(こうさいしゅやくなん)
開彼智慧眼(かいひちえげん)
滅此昏盲闇(めっしこんもうあん)
閉塞諸悪道(へいそくしょあくどう)
通達善趣門(つうだつぜんじゅもん)
功祚成満足(くそじょうまんぞく)
威曜朗十方(いようろうじっぽう)
日月戢重暉(にちがつしゅうじゅうき)
天光隠不現(てんこうおんぷげん)
為衆開法蔵(いしゅうかいほうぞう)
広施功徳宝(こうせくどくほう)
常於大衆中(じょうおだいしゅうじゅう)
説法師子吼(せっぽうししく)
供養一切仏(くよういっさいぶつ)
具足衆徳本(ぐそくしゅとくほん)
願慧悉成満(がんねしつじょうまん)
得為三界雄(とくいさんがいおう)
如仏無礙智(にょぶつむげち)
通達靡不照(つうだつみふしょう)
願我功慧力(がんがくえりき)
等此最勝尊(とうしさいしょうそん)
斯願若剋果(しがんにゃっこっか)
大千応感動(だいせんおうかんどう)
虚空諸天人(こくうしょてんにん)
当雨珍妙華(とううちんみょうけ)
8-1★ 本誓偈~ほんぜいげ~
弥陀本誓願弥(みだほんぜいがん)
阿弥陀さまがお誓いした救いの願いは
極楽之要門(ごくらくしようもん)
私たちが 極楽浄土に生まれるための 最も大切な教えです
定散等回向(じょうさんとうえこう)
あらゆる功徳を積んで極楽浄土に生まれるためにふりむけ
速証無生身(そくしょうむしょうしん)
速やかに永遠の命を得られますように
*この本誓偈か、次の聞名得益偈のどちらかを読みます。
8-2★ 聞名得益偈~もんみょうとくやくげ~
其仏本願力(ごぶつほんがんりき)
阿弥陀さまの真の願いによって
聞名欲往生(もんみょうよくおうじょう)
私たちがお念仏して 極楽浄土に生まれたいと思えば
皆悉到彼国(かいしっとうひこく)
必ずみな 極楽浄土に生まれ
自致不退転(じちふたいてん)
み仏さまのお守りによって 自ずと揺るぎない心をお育ていただけます
*この聞名得益偈か、前の本誓偈のどちらかを読みます。
9 十念~じゅうねん~
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)
み仏さまの顔を拝み 阿弥陀さまのお救いを信じて 手を合わせ ただひたすらに「なむあみだぶつ」とお念仏を称えましょう
10-1 ★ 一枚起請文~いちまいきしょうもん~
法然上人御遺訓
一枚起請 法然上人真筆
(くろ谷 金戒光明寺蔵)掲載許可済
唐土我朝(もろこしわがちょう)に、もろもろの智者達(ちしゃたち)の、沙汰(さた)し申(もう)さるる観念(かんねん)の念(ねん)にもあらず。
私の説いたお念仏は、中国や日本の高僧たちがさかんに説いた静めた心でみ仏さまのお姿を想い描く「観念の念仏」ではありません。
また学問(がくもん)をして、念(ねん)のこころを悟(さと)りて申(もう)す念仏(ねんぶつ)にもあらず。
また、学問をしてお念仏の真髄を理解したうえで称えるお念仏でもありません。
ただ往生極楽(おうじょうごくらく)のためには、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と申(もう)して、うたがいなく往生(おうじょう)するぞと思(おも)い取(と)りて申(もう)す外(ほか)には別(べつ)の仔細候(しさいそうら)わず。
阿弥陀さまの極楽浄土に往生する為には、ただひたすらに南無阿弥陀仏と称えて、まったく疑うことなく極楽浄土に生まれるのだと思って、お念仏を称えること以外に必要なことは何もないのです。
ただし三心四修(さんじんししゅ)と申(もう)すことの候(そうろ)うは、皆決定(みなけつじょう)して南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)にて往生(おうじょう)するぞと思(おも)ううちにこもり候(そうろ)うなり。
ただしお念仏を称える者がもつべき三つの心構えと四つの実践すべきことがありますが、それも「南無阿弥陀仏とお念仏することによって必ず往生するのだ」と信じて称える念仏の中に、みんな備わってくるのです。
この外(ほか)に奥(おく)ふかき事(こと)を存(ぞん)ぜば、二尊(にそん)のあわれみにはずれ、本願(ほんがん)にもれ候(そうろ)うべし。
もし私が、これ以外に奥深いことを考えているとしたならば、阿弥陀さまとお釈迦さまのお慈悲からはずれ、この私がお救いからもれるでしょう。
念仏(ねんぶつ)を信(しん)ぜん人(ひと)は、たとい一代(いちだい)の法(ほう)をよくよく学(がく)すとも、一文不知(いちもんふち)の愚鈍(ぐどん)の身(み)になして、尼入道(あまにゅうどう)の無智(むち)のともがらに同(おな)じうして、智者(ちしゃ)のふるまいをせずしてただ一向(いっこう)に念仏(ねんぶつ)すべし。
お念仏を信じる人は、たとえお釈迦さまが一生涯をかけてお説きになった教えをしっかり学んだとしても、初心にかえりその一文字に説かれた本当の意味も理解できていない愚かな私であることを自覚し、み仏さまのみ守りとお導きを素直に感じる心を持ち、尼入道と同じ立場に立って、自分が智者であるようにふるまわず、ただひたすらお念仏を称えなさい。
証(しょう)のために両手印(りょうしゅいん)をもってす。
証明のために私の両手の手形を押します。
浄土宗(じょうどしゅう)の安心起行(あんじんきぎょう)この一紙(いっし)に至極(しごく)せり。
浄土宗の心構えも実践の仕方も、この一枚の紙にすべて極めました。
源空(げんくう)が所存(しょぞん)、この外(ほか)に全(まった)く別義(べつぎ)を存(ぞん)ぜず。滅後(めつご)の邪義(じゃぎ)をふせがんがために所存(しょぞん)をしるし畢(おわ)んぬ。
私、源空の信じるところ、これ以外に異なった解釈はありません。私の死後、あやまった解釈が広がることを防ぐために、私の信じるところを、ここに記し終えました。
建暦二年(けんりゃくにねん)正月(しょうがつ)二十三日(にじゅうさんにち) 大師在御判(だいしざいごはん)
建暦二年(一二一二年) 一月二十三日 法然上人の署名
この二日後の 一月二十五日 法然上人往生
10-2 ★ 一紙小消息~いっしこしょうそく~
法然上人御法語
末代(まつだい)の衆生(しゅじょう)を往生(おうじょう)極楽(ごくらく)の機(き)にあてて見(み)るに、行
(ぎょう)すくなしとても疑(うたご)うべからず、一念(いちねん)十念(じゅうねん)に足(た)りぬべし。
混乱する時勢の中、誰一人として覚ることができない時代に生きている私が、阿弥陀さまのお救いにより往生ができるうつわであるかを省みる時、実践すべき行が少なくても、往生を疑ってはいけません。一遍や十遍のお念仏でも十分なのです。
罪人(ざいにん)なりとても疑(うたご)うべからず、罪根(ざいこん)ふかきをもきらわじとのたまえり。
罪を犯し続けている私だからといって、往生を疑ってはいけません。阿弥陀さまの私たちを救いたいという本願のまま、罪深い者であっても見捨てることなく必ずお救いくださるのです。
時(とき)くだれりとても疑(うたご)うべからず、法滅(ほうめつ)以後(いご)の衆生(しゅじょう)なおもて往生(おうじょう)すべし、況(いわん)や近来(きんらい)をや。
お釈迦さまの時代からどれほど時が経過していようとも、往生を疑ってはいけません。お釈迦さまの教えが消滅した後でさえ、人々は往生できるのです。そうであれば、当然今のこの時代でも往生できるのです。
我(わ)が身(み)わろしとても疑(うたご)うべからず、自身(じしん)はこれ煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)せる凡夫(ぼんぶ)なりとのたまえり。
自身が愚か者だからといって、往生を疑ってはいけません。なぜならば善導大師も「この私はまさに煩悩を持ちながらも生きる凡夫である」と仰せになっているからです。
十方(じっぽう)に浄土(じょうど)おおけれど、西方(さいほう)を願(ねご)うは十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の衆生(しゅじょう)の生(う)まるる故(ゆえ)なり。
あらゆる世界にみ仏さまの浄土は多数ありますが、私たちが西方極楽浄土への往生を願うのは、十種の悪業(命を粗末にする、人の物や眼を盗む、男女の乱れた関係、嘘をつく、二枚舌を使う、暴言や悪態をつく、人をおだてたりお世辞を言う、足りているのに欲張る、腹を立てる、愚痴をこぼすという十の悪い行い)や五つの大罪(父を殺す、母を殺す、良き師を殺す、仏身や仏像を傷つける、僧の集団を混乱させ分裂させるという五つの大罪)を犯した人であっても、必ず往生することができるからです。
諸仏(しょぶつ)のなかに弥陀(みだ)に帰(き)したてまつるは、三念(さんねん)五念(ごねん)に至(いた)るまでみずから来迎(らいこう)したもう故(ゆえ)なり。
諸々のみ仏さまの中でも、ただ阿弥陀さまに救いを求めるのは、お念仏の回数が一生涯の中で三遍や五遍であろうとも、ただその人を救う為だけに、阿弥陀さま自ら極楽浄土よりお迎えくださるからです。
諸行(しょぎょう)の中(なか)に念仏(ねんぶつ)を用(もち)うるは、かの仏(ほとけ)の本願(ほんがん)なる故也(ゆえなり)。
様々な仏道修行の中で、称名念仏だけを修する理由は、阿弥陀さまによって誓われた、唯一のお約束だからです。
いま弥陀(みだ)の本願(ほんがん)に乗(じょう)じて往生(おうじょう)しなんに、願(がん)として成(じょう)ぜずと云(い)う事(こと)あるべからず。
お念仏を称え、阿弥陀さまの本願によって極楽浄土に往生しようとしているのに、誰一人として、往生が叶わないということはありません。
本願(ほんがん)に乗(じょう)ずる事(こと)は信心(しんじん)のふかきによるべし。
阿弥陀さまの願いに乗じるということは、私たち念仏者の、阿弥陀さまと自らの往生を信じる心の深さによるのです。
うけがたき人身(にんじん)をうけて、あいがたき本願(ほんがん)にあいて、おこしがたき道心(どうしん)を発(おこ)して、はなれがたき輪廻(りんね)の里(さと)をはなれて、生(う)まれがたき浄土(じょうど)に往生(おうじょう)せん事(こと)、悦(よろこび)の中(なか)の悦(よろこび)なり。
奇跡的に人として生をうけ、さらに巡り合うこと自体が難しい阿弥陀さまの本願に出会うことができ、さらに困難な覚りを目指す心をおこし、この長く苦しい輪廻の世界から抜け出て、西方極楽浄土に生まれることは、本当に幸運であり悦びであるのです。
罪(つみ)は十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の者(もの)も生(う)まると信(しん)じて、少罪(しょうざい)をも犯(おか)さじと思(おも)うべし。
十種の悪業や五つの大罪を犯した人であっても、必ず極楽浄土に往生すると信じて、どんな小さな罪であっても犯さないように心がけましょう。
罪人(ざいにん)なお生(う)まる、況(いわん)や善人(ぜんにん)をや。
罪を犯した人であっても、お念仏によって、必ず極楽浄土に往生するのですから、罪を犯すことなく、お念仏を称えた善良な人は、必ず阿弥陀さまの本願によって、極楽浄土に往生するのです。
行(ぎょう)は一念(いちねん)十念(じゅうねん)なおむなしからずと信(しん)じて、無間(むけん)に修(しゅ)すべし。
往生するためには、一遍や十遍のお念仏でも無意味ではなく、心から信じてひたすらお念仏を称えましょう。必ず極楽浄土に生まれるのだと心から信じて、ただひたすらにお念仏を称えましょう。
一念(いちねん)なお生(う)まる、況(いわん)や多念(たねん)をや。
一遍のお念仏であっても必ず極楽浄土に生まれるのです。まして多くお念仏を称えるのであれば、言うまでもなく、必ず極楽浄土に生まれるのです。
阿弥陀仏(あみだぶつ)は不取正覚(ふしゅしょうがく)の言(ことば)を成就(じょうじゅ)して、現(げん)に彼(か)の国(くに)にましませば、定(さだ)んで命終(みょうじゅう)の時(とき)は来迎(らいこう)したまわん。
阿弥陀さまは自らの四十八願の誓いすべてにおいて「万が一私にそれができないのであれば、私は仏になりません」という言葉を成し遂げ、今まさに仏となって西方極楽浄土におられるからこそ、必ず私たち念仏者がこの世で命が終わる時には、阿弥陀さま自ら極楽浄土よりお迎えくださるのです。
釈尊(しゃくそん)は、善哉(よきかな)我(わ)が教(おし)えに随(したが)いて生死(しょうじ)を離(はな)ると知見(ちけん)したまい、六方(ろっぽう)の諸仏(しょぶつ)は、悦(よろこ)ばしき哉(かな)我(わ)が証誠(しょうじょう)を信(しん)じて不退(ふたい)の浄土(じょうど)に生(う)まると悦(よろこ)びたもうらんと。
お釈迦さまは「お念仏を称える者たちよ、そうだ、そうなのだ。それでいいのだ。私の教えに随って、迷いの世界から脱け出よう」と見て取られ、六方におられるみ仏さまは「嬉しいことではないか。私の証明を信じて、覚りから決して退くことのない阿弥陀さまの極楽浄土に往生するのだ」とお悦びになられるのです。
天(てん)に仰(あお)ぎ地(ち)に臥(ふ)して悦(よろこ)ぶべし、このたび弥陀(みだ)の本願(ほんがん)にあう事(こと)を。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)にも報(ほう)ずべし、かの仏(ほとけ)の恩徳(おんどく)を。
私たちは天地に向かって最高の敬意を表し、今、この世界で阿弥陀さまの本願に出会うことができたことを、喜びましょう。阿弥陀さまのお慈悲とお救いに心から感謝しましょう。
頼(たの)みても頼(たの)むべきは乃至十念(ないしじゅうねん)の詞ことば、信(しん)じても猶(なお)信(しん)ずべきは必得往生(ひっとくおうじょう)の文(もん)なり。
私たちが心のよりどころにすることは、ただ阿弥陀さまの第十八願の誓いにある「少なくとも十遍、わが名を称えたならという『乃至十念』」というお言葉です。そして、さらに心から信じるべき最も大切なことは、善導大師の「必ず阿弥陀さまの極楽浄土に往生することができるのだという『必得往生』」の一文です。心から信じ、阿弥陀さまの名を称え続けましょう。
11 摂益文~しょうやくもん~
光明徧照十方世界(こうみょうへんじょうじっぽうせかい)
阿弥陀さまの光明は あらゆる世界をくまなく照らし
念仏衆生摂取不捨(ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ)
お念仏を称え 阿弥陀さまの名を呼ぶ者を もれなくお救いくださいます
12 念仏一会~ねんぶついちえ~
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)(十念)
...繰り返し
ただひたすらお念仏を称えます
自分の《出来ているという思いからくる》計らいを捨て...
阿弥陀さまの《このまま私をお救いくださる》広大無辺なお慈悲を信じて...
また先に旅立ったあの人を思い...
時間の許されるだけ「なむあみだぶつ」とお念仏を称えましょう
13 ご先祖さまの回向~ごせんぞさまのえこう~
〇〇(法名)追善増進菩提(〇〇ついぜんぞうしんぼだい)
〇〇家先祖代々追善増進菩提(〇〇けせんぞだいだいついぜんぞうしんぼだい)
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)(十念)
親がない人はありません
ご先祖さまから 命を受け継いだ私たち
回向とは 私たちがそのことに気づき
ご先祖さまに想いを向けることです
14 総回向偈~そうえこうげ~
願以此功徳(がんにしくどく)
平等施一切(びょうどうせいっさい)
同発菩提心(どうほつぼだいしん)
往生安楽国(おうじょうあんらっこく)
このお念仏の功徳によって 阿弥陀さまにおすがりする すべての人が 極楽浄土に生まれることを願います
15 十念~じゅうねん~
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)
み仏さまの顔を拝み 共に阿弥陀さまの極楽浄土に生まれることを信じて ただひたすらに「なむあみだぶつ」とお念仏を称えましょう
16 総願偈~そうがんげ~
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
命あるものみなすべて いずれ悟りをえることができますよう
煩悩無辺誓願断(ぼんのうむへんせいがんだん)
また煩悩が 次から次へ湧いてこようとも いずれ断ち切ることができますよう
法門無尽誓願知(ほうもんむじんせいがんち)
そして み仏さまの教えがどんなに多くても いつかすべて理解できますよう
無上菩提誓願証(むじょうぼだいせいがんしょう)
そして その道のりがどれほど長くとも いつか成就することができますよう 私は願います
自他法界同利益(じたほうかいどうりやく)
命あるものみなすべて あなたも私も みな平等にご利益を得
共生極楽成仏道(ぐしょうごくらくじょうぶつどう)
共に極楽浄土に生まれることができますよう
み仏の道を 手を取り合い 歩めますように
17-1★ 三唱礼~さんしょうらい~
南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)
南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)
南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)
拝 三 遍
(礼拝 らいはい)
お念仏を称えながら 浄土宗の最高の敬意を表す
五体投地【額・両肘・両膝を地につけ】の礼拝をします
いつも私を導いてくださる 阿弥陀さま
いつもみ守ってくださる 阿弥陀さま
必ずお迎えくださる 阿弥陀さま
そのような思いで お念仏を称えながら礼拝します
*この三唱礼か、次の三身礼のどちらかを読みます。
17‐2★ 三身礼~さんじんらい~
南無西方 極楽世界 本願成就身阿弥陀仏
(なむさいほう ごくらくせかい ほんがんじょうじゅしんあみだぶ)
南無西方 極楽世界 光明摂取身阿弥陀仏
(なむさいほう ごくらくせかい こうみょうせっしゅしんあみだぶ)
南無西方 極楽世界 来迎引接身阿弥陀仏
(なむさいほう ごくらくせかい らいこういんじょうしんあみだぶ)
西方極楽浄土におられる いつも私を導き
絶えずみ守り 必ずお迎えに来てくださる
阿弥陀さまに わが身すべてをお任せします
*この三身礼か、前の三唱礼のどちらかを読みます。
18 送仏偈~そうぶつげ~
請仏随縁還本国(しょうぶつずいえんげんぽんごく)
み仏さま ご縁のままに 極楽浄土へお還りください
普散香華心送仏(ふさんこうけしんそうぶつ)
香を焚き 華をまきながら 心を込めてみ仏さまを お送りいたします
願仏慈心遙護念(がんぶつじしんようごねん)
阿弥陀さまのお慈悲によって 極楽浄土からいつも私たちを み守りお導きください
同生相勧尽須来(どうしょうそうかんじんしゅらい)
私たちが 必ず極楽浄土に生まれますよう み仏さま ご先祖さま み守ってください
19 十念~じゅうねん~
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)
自分の耳に聞こえるように この私を導きお救いくださる 阿弥陀仏を拝みながら「なむあみだぶつ」と称えましょう
* 礼讃(三尊礼)~らいさん(さんぞんらい)~
南無至心帰命礼西方阿弥陀仏(なむししんきみょうらいさいほうあみだぶ)
弥陀身色如金山相好光明照十方(みだしんじきにょこんせんそうごうこうみょうしょうじっぽう)
唯有念仏蒙光摂当知本願最為強(ゆいうねんぶつむこうしょうとうちほんがんさいいごう)
六方如来舒舌証専称名号至西方(ろっぽうにょらいじょぜっしょうせんしょうみょうごうしさいほう)
到彼華開聞妙法十地願行自然彰(とうひけかいもんみょうほうじゅうじがんぎょうじねんじょう)
願共諸衆生往生安楽国(がんぐしょしゅじょうおうじょうあんらっこく)
西方極楽浄土におられる阿弥陀さまに心から帰依し、礼拝いたします。
阿弥陀さまのお身体はまるで黄金の山のようであり、そこから放たれる光明はあらゆる世界を照らします。
ただ阿弥陀さまの名を称える者のみがその光明をうけ、阿弥陀さまのお救いにより極楽浄土へ導かれます。
阿弥陀さまの本願こそが、最も勝れたものであることをよく理解しましょう。
あらゆる世界のみ仏さまはみな、「ただひらすら阿弥陀さまの名を称えれば、必ず西方極楽浄土に至ることができる」と証明しています。
そして極楽浄土の蓮のうてなに生まれ、阿弥陀さまの妙なる説法を聞いて、菩薩さまが修めるべき願と行を自ずと成就することができるのです。
みな共に極楽浄土に生まれることができますように。
南無至心帰命礼西方阿弥陀仏(なむししんきみょうらいさいほうあみだぶ)
観音菩薩大慈悲已得菩提捨不証(かんのんぼさつだいじひいとくぼだいしゃふしょう)
一切五道内身中六時観察三輪応(いっさいごどうのうしんじゅうろくじかんざつさんりんのう)
応現身光紫金色相好威儀転無極(おうげんしんこうしこんじきそうごういぎてんむごく)
恒舒百億光王手普摂有縁帰本国(ごうじょひゃくおくこうおうしゅふしょううえんきほんごく)
願共諸衆生往生安楽国(がんぐしょしゅじょうおうじょうあんらっこく)
西方極楽浄土におられる阿弥陀さまに心から帰依し、礼拝いたします。
観音さまは慈悲深い菩薩で、最高の位の菩薩であるにもかかわらず、自らの意志で仏にはならず、この苦しみの世界で私たちを導き続けてくださいます。
輪廻の世界にある私たちを、自らの身体から放つ光明で照らし、苦しみの中にある人々をよく見極め、身と口と心のすべてでその人に対応してお導きくださいます。
この世界でそのお姿をみることができたら、そのお身体は紫がかった金色に光り輝き、その容姿といい、立ち振る舞いといい、言葉にできないほど威厳があって素晴らしいのです。
いつも無数の光の手を差し出して、あらゆる人を救い、極楽浄土へと導いています。
みな共に極楽浄土に生まれることができますように。
南無至心帰命礼西方阿弥陀仏(なむししんきみょうらいさいほうあみだぶ)
勢至菩薩難思議威光普照無辺際(せいしぼさつなんしぎいこうふしょうむへんざい)
有縁衆生蒙光触増長智慧超三界(うえんしゅじょうむこうそくぞうじょうちえちょうさんがい)
法界傾揺如転蓬化仏雲集満虚空(ほうかいきょうようにょてんぶけぶつうんじゅうまんこくう)
普勧有縁常億念永絶胞胎証六通(ふかんうえんじょうおくねんえいぜつほうたいしょうろくつう)
願共諸衆生往生安楽国(がんぐしょしゅじょうおうじょうあんらっこく)
西方極楽浄土におられる阿弥陀さまに心から帰依し、礼拝いたします。
勢至さまは本当に不可思議な菩薩であり、その威厳にあふれた光明は、全世界をくまなく照らしています。
その光を受けた人はみな智慧が増し、ふたたび苦しみの世界に立ち戻ることがありません。勢至さまが動けばすべての世界が大きく揺れ動き、仏さまの化身が一斉に集まり、大空を埋め尽くすのです。
いつも勢至さまのことを想い、輪廻の世界でさまようこの身体から永遠に離れ、極楽浄土に往生して六種の不可思議な力を得ることができますように。
みな共に極楽浄土に生まれることができますように。
* 発願文~ほつがんもん~
願(ねが)わくは弟子等(でしとう)命終(みょうじゅう)の時(とき)に臨(のぞ)んで、心(こころ)顛倒(てんどう)せず、心(こころ)錯乱(しゃくらん)せず、心(こころ)失念(しつねん)せず。
阿弥陀さまにお誓いいたします。私たち念仏者が、命終わろうとする時に、邪な思いに流されたり、とまどったり、我を失うことがありませんように。
身心(しんじん)に諸(もろもろ)の苦痛(くつう)なく、身心快楽(しんじんけらく)にして、禅定(ぜんじょう)に入(い)るが如(ごと)く、聖衆現前(じょうじゅげんぜん)したまい、
そして心身ともに何の痛みも感じることなく、本当の幸福に包まれ、心穏やかに極楽浄土からお迎えにこられる阿弥陀さま、菩薩さま方を目の当たりにすることができますように。
仏(ほとけ)の本願(ほんがん)に乗(じょう)じて、阿弥陀仏国(あみだぶっこく)に上品往生(じょうぼんおうじょう)せしめたまえ。
阿弥陀さまの私たちを救いたいという本願のまま、極楽浄土のこの上なき蓮のうてなに生まれることができますように。
彼(か)の国(くに)に到(いた)り已(おわ)って、六神通(ろくじんずう)を得(え)て、十方界(じっぽうかい)に入(かえ)って、苦(く)の衆生(しゅじょう)を救摂(くしょう)せん。
極楽浄土に往生した後には、六種の不可思議な力をこの身に備え、すべての世界で苦しむ人々を導くことができますように。
虚空法界(こくうほうかい)尽(つ)きんや、我(わ)が願(がん)も亦是(またかく)の如(ごと)くならん。
私のこの願いは、苦しむ人々がこの世界からいなくなるその日まで永遠に続きます。
発願(ほつがん)し已(おわ)んぬ。至心(ししん)に阿弥陀仏(あみだぶつ)に帰命(きみょう)したてまつる。
今この永遠の誓いをわがものとし、阿弥陀さまに心から帰依いたします。
漢文<音読>