第16話 良忠

長い時を経て

気がつくと 彼は師匠の後を継ぎ 念仏の教えを広めて日本の各地を巡っていました。
行く先々で 多くの方から昔、法然上人がお説きになられた教えというのはこうであったのか? こう伝え聞いているが本当か?
大勢の方から尋ねられたのです。

彼の師匠は 法然上人の教えを後の世に正しく伝えるために『末代念仏授手印』という書物を書かれて、それを彼に授けた時に、
「これこそが法然上人の教えじゃ。これを正しく伝えるのはそなたの役目じゃぞ。」
と言い残されたのです。
彼は 西に沈みゆく夕日を眺めながら
『聖光様、聖光様が私に託されたことは、この私には厳しいです。』
と思わずつぶやかれたのでした。

この良忠は 聖光様に言われた時に、もっと安易に考えておりました。
私は『末代念仏授手印』の内容を伝えてみせるならば 人それぞれ力量に差こそあれ それほどまでに難しいことではあるまいと思っておりました。
しかしながら 言葉というものが如何に人に伝えにくいかを思い知らされました。もっと誤解されぬようにと『授手印』の解説をいくつも書きました。
また師匠のお言葉をまとめ上げた『宗要』という本も作り、さらにそれへ解説を施したり、いつの間にやら山ほどの書物を記し、記主禅師という名まで授かりました。
それも偏に聖光様とのお約束を果たさんがため。
確かに念仏の正しい教えは広まりつつあるように思います。
『しかしながら聖光様、私は本当にお役に立てておりますでしょうか、是非お教え下さいませ。』

良忠上人は涙を流し 夕日の沈む方へと脚を向けられるのでした。

その夜、良忠上人の所へ尋ねて来る者がありました。
こんな夜更けに尋ねて来られるとは よほどのことと お越しになった人のお姿を見て驚かれました。
口から血を吐き 衣や襟にも赤黒い血の跡が一面に飛び散った出で立ち。
「如何なされた?」
「私は在阿と申す 元は天台宗に学んでおりました僧に御座います。 実は私、吐血の病にかかり余命も幾許かあらんという有り様でございます。 今、我が身に望むところは往生極楽のみにございます。 ところがいろんな方々に解らぬ所を尋ねたりする内に 何が正しかったのかも 混乱するようになった次第です。近頃では念仏名義集というこの本ばかりが頼りで、、、。」

「おお、それは我が師 聖光上人御作の。」
「いかにも。しかしこの本にても どうしても得心のいかぬところが幾つかあり、、、聖光上人から『授手印』を授かられた貴方様なら お教えいただけるものと信じて教えを請いにやってまいりました。 もう命尽きる時もすぐ傍に近付いていることでしょう。 是非とも疾く往生の道にかかる 心の雲を取り除いて下さりませ。」

自分の目の前には まさに死の恐怖におびえながら 往生を願っている男がいる。
この男の疑問の一つ一つが 間違いなく念仏の信仰の中にあってすら 人々が抱いてしまう迷いなのだ。
そのことに気付いた彼は「何としても聖光様から受け継いだ教えを伝え残さねばならぬ、口で伝え、言葉で伝えるより仕方ない 仏教の教えではあるが、口から口ではなく口で心に伝えるのだ 」と決意したのでした。
「それから良忠上人、私という男はこれほど往生したいと願いながらも 欲望の心ばかり次々と起こるのに 往生を願う心は何と弱いこと、本当にこれでよいのですか?」

「心配なさるな在阿殿、この時にこそ 善導大師のお言葉があるではありませんか!」
彼はそういうと 二つの河と白い一筋の道というお譬えを語るのでした。 二人の心の中には 白い一筋の道が夕陽の沈むこと 懐かしき人が待つ故郷に向かって延びている景色がはっきりと浮かんでいるのでした。