第24話 教団の住まい

釈尊や主に出家した弟子たちに定まった住居というのはありませんでした。それぞれが常に一緒にいるのでなく、林の中や洞窟などで休みながら旅の暮らしをするというスタイルだったのです。

ただしインドには雨期があります。この期間だけは一定の場所に留まるのがしきたりでもありました。何故なら乾期の間は大地が干からびて固くなりますが、雨期になりますと大地に草木が甦り、地上には多くの虫も出てきます。修行者たちはその生き物たちを誤って踏み潰さないように注意して歩くのですが、基本雨期には歩き回らないというのがルールでした。

普段はバラバラに伝道活動をしている弟子たちも、雨期だけは集合し、釈尊に質問をしたり、あるいは互いに討論をしたりして過ごします。このように特別の期間に修行することを安居(あんご)といいます。

釈尊の教団はいつの間にか大きな僧団になりましたので、一ヶ所に集合すると何かと大変です。
その様子を知った、インド最大の都市マガダ国に住むカランダカ長者は、所有する竹林を釈尊や弟子たちのために奉献します。さらにマガダ国の国王ビンビサーラ王はそこに伽藍を建立しました。
ここは竹林精舎と呼ばれ、事実上仏教最初の建造物「寺院」が出来上がりました。

またマガダ国と同じく大国であったコーサラ国の首都の郊外には、須達長者(すだつちょうじゃ)という富豪がいました。彼は普段からよく、身寄りのない人などに施しをしていたので、孤独な人々に施しをする長者という意味で、給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ)とも呼ばれていました。

あるとき須達長者は釈尊及び弟子のために精舎を寄進したいと思い、安居に適した場所を探していたところ、コーサラ国の祇樹(ぎじゅ)王子が所有する土地を手に入れることを思いつきました。
ところが王子は土地を売るための法外な条件を出してきたのです。

「私の土地が欲しいなら、その土地全体に金貨を敷き詰めること。それを代価として土地を譲りましょう」

大富豪である須達長者は、実際にこの条件を受け入れました。

みるみるうちに土地は金貨で敷き詰められていきます。その様子に驚きを隠せない祇樹王子でしたが、須達長者がそこまでして、この土地を手に入れたいという理由を知ると、自分もまた釈尊に土地を寄進したいと思い、既に金貨が敷かれた場所は須達長者から、まだ敷き詰められていない場所は王子からというふうに、二人によって土地が寄進されたのです。

祇樹王子と給孤独長者の二人が寄進した場所を、経典は、
「祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)」
と伝えています。
この頭の文字と最後の文字をとって略した呼び名が「祇園精舎」なのです。

他にもありますが、釈尊らが居住していた精舎は、現在でも仏跡として、多くの人が訪れ、お釈迦様の時代に想いを馳せています。


第25話 最後の旅〜涅槃〜

釈尊の伝道の旅は実に四十五年にも及びました。三十五歳で成道とされますので、釈尊は八十の老齢になりました。

釈尊と一番長くそばにいたのは阿難(あなん)という弟子でした。彼は釈尊と同じシャーキャ族の出身で、従兄弟ともいわれています。釈尊にとっては、人一倍親しみがあったのかもしれません。

インドでは雨期にともない飢饉が多発し疫病も流行っていました。釈尊はある時激しい苦痛に見舞われます。ブッダとはいえ、身体そのものは人間です。病苦を免れることはないのです。

阿難はこの時かなり動揺します。ただでさえ高齢である釈尊の「死」を恐れていたのです。

釈尊は阿難に言います。

「阿難よ。人はいつかは必ず別れがやってくる。修行者たちは私を頼ってはいけない。私は全ての教えを説いてきた。私は八十歳になった。今この体は、古ぼけた車が皮ひもで補修され、やっと動いているようなものだ。阿難よ。今、あるいは今後は、自らを島とし、自らを拠り所としなさい。また法(ダルマ)を島とし、法(ダルマ)を拠り所としなさい。他のものに頼ってはいけない」

島は洪水のときにでも流されない不動の中州を喩えている言葉ですが、時に灯明とも解され、ブッダ最後の言葉として「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」と表現されています。

やがて雨期が終わるころ、釈尊は弟子たちを呼び集めて言いました。

「修行者たちよ。全ては過ぎ去るものである。私の寿命は熟し、もはや先は短い。汝らを残してわたしは行く。わたしの拠り所は既に完成された」

と、入滅を匂わせる言葉を残しておられます。

それから再び旅に出た釈尊。残された日々を伝道に費やされました。

ある時、チュンダという男から釈尊は食事の施しを受けました。彼が出した食事は豚の肉ともキノコともいわれていますが、文献上特定に至ってはおりません。
いずれにせよ、この食事がもとで釈尊は激しい腹痛に襲われ、血が混じった下痢になりました。

チュンダはどんな心境だったのでしょうか。自分が供養のつもりで差し出した料理によって、尊いお方の病を引き起こしてしまったのです。

そんなチュンダの心内を知ってか、釈尊は言葉を遺しています。

「友よ。あなたの料理は修行を完成した私の最後の食事となったのだから、他の供養よりもはるかに優れた功徳がある。汝の未来には多くの幸があるであろう」

また、

「無上の悟りを得るために食べたスジャータによる食事(乳粥)と、完全な涅槃に至るために食べたチュンダによる食事、この二つは等しいものであり、他のどの食事よりも功徳のあるものである」

とも言われました。

釈尊は弱まっていく体で、クシナガラという地にやってきました。
釈尊は阿難に、二本の沙羅の木の間に、頭を北に向けて床を用意するように頼まれました。

いよいよ釈尊の入滅が目前に迫ったことを感じた阿難は号泣します。
阿難のほかにも多くの弟子や動物、鬼神などが、釈尊の臨終が近いことを知り集まって、むせび泣いています。

釈尊は静かに教えを説かれました。

「悲しんではならない。愛おしいものは、みな別れ、離れ、別々になると、私は説いてきたではないか。全ては過ぎ去る。私がいなくなった後は、私が説いてきたことが汝らの師となる。怠ることなく修行を完成しなさい」

これが最後の言葉となり、釈尊は涅槃に入られました。
二月十五日のことでありました。

現在では二月になりますと(一部三月の地域もあります)各寺院で涅槃会が勤められ、お釈迦さまのご遺徳を偲びます。その時に掛けられる涅槃図が、まさしく釈尊入滅の様子を描いたものなのです。

釈尊の亡骸は、香りの良い香木の薪を積み、その上に安置されました。神々は天から曼陀羅華(まんだらけ)を無数に降らせました。
やがて火葬され、ご遺骨は八等分されて、それを納める塚が各所に建立されました。
この塚をストゥーパといいます。これを漢字にあてたのが卒塔婆(そとうば)であり、塔婆の語源なのです。

ブッダに直接巡り会うことができない私たちが、ブッダの教えに触れることができ、また手を合わせ礼拝できるのは、ストゥーパを遺してくださったおかげでもあり、さらに多くのお弟子たちが、教えを護り伝えてきてくれたからこそです。

お釈迦様にまつわる史実や伝承は、まだまだ尽きるものではなく、とてもではありませんが、このサイトの限られた範囲で語れるものではありません。

お釈迦様のご誕生から成長、出家からお悟り、伝道の旅から涅槃まで、少しでもお釈迦様を身近に感じていただきたく、稚拙な文章を披露してまいりました。

『ブッダの生涯』は最終話となります。辛抱強く読んでくださった皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

また、
多くのお寺ではお釈迦様の法要として、
四月には降誕会(花まつり)
十二月には成道会
二月には涅槃会
が勤められます。

このサイトをご縁に、お釈迦様の三大法会にお参りしていただければこの上ない喜びでございます。

(完)