第19話 箕面の勝尾寺にて

 承元元(一二〇七)年の十二月に四国流罪が許された法然上人でしたが、そのまますぐには京都に帰ることができませんでした京都に入ることができなかった法然上人は、勝尾寺に立ち寄ることにしました。結局、法然上人の勝尾寺滞在は建暦元(一二一一)年までに及びます。四国の滞在が約八ヶ月ですから、勝尾寺の滞在期間がいかに長いかがよく分かります。ひょっとすると法然上人を京都に入れることを許さなかった何らかの圧力が、高齢な法然上人を箕面の地で最期を迎えさせようとしたのではないかとさえ思えてきます。瀬戸内の温暖な気候に比べると、箕面の山中はまるで比叡山のような環境でしょう。しかも勝尾寺は源平の争乱で寿永三(一一九二)年に焼失しており、法然上人が立ち寄った時は復興後まだ間もない頃でしょうから、伽藍は整ったとしてもまだまだ困窮した状況だったのかもしれません。

 では法然上人はなぜ箕面の勝尾寺への滞在を選んだのでしょうか。『四十八巻伝』巻第三十六には、法然上人が平安時代の念仏行者であり勝尾寺第四代の勝如(証如とも書く。七八一~八六八)の事跡を慕ってこの地に訪れたとしています。この勝如は五十年間も念仏三昧に日々を送り、入滅の一年前に同じく念仏行者であった沙弥教信という人物から「私は今日入滅した。あなたは来年の今日に入滅する」というお告げを受け、沙弥教信が入滅した日からちょうど一年後に息を引き取ったという人物です。この沙弥教信と勝如の逸話は平安時代から有名な話であり、永観の『往生拾因』などにも記載され、法然上人も『要義問答』の中でこの逸話を伝えています。この二人の事跡に強く心惹かれていた法然上人は、勝尾寺の中でも「西の庵」と呼ばれていた二階堂を自ら選び、そして人生最期の時間を静かに念仏三昧の中で過ごそうとしたのかもしれません。また、古来この地は聖と呼ばれ全国を行脚しながらお念仏の教えを広めたりする修行僧の重要な拠点でした。法然上人がこの聖ネットワークを頼った可能性も挙げられます。また『摂津国名所図絵』などには夢の中で善導大師から「勝尾寺にて逢おう」というお告げがあったとも伝えています。

 勝尾寺に入った法然上人は、境内の中でも一際高い所に位置する二階堂という建物に滞在しました。『四十八巻伝』巻第三十六には、勝尾寺で引声念仏が勤められた折に、僧侶たちの法衣があまりにも痛んでいたので京都にいた弟子の信空に十五具の装束を新調させ施入させ、また勝尾寺は戦乱で一切経が焼失していたので法然上人が所持していた一切経を施入させ、その際には安居院聖覚が開題供養の唱導を勤めたと伝えています。勝尾寺二階堂にお参りしますと、善導大師と法然上人が対面している瞬間が移り込んでいるという板がご本尊として祀られており、堂内にはたくさんの灯篭がかかげられています。ここのご本尊に、善導大師と法然上人のお姿が移り込んでいると思うと、胸が熱くなる想いがしてきます。


第20話 最晩年の法然上人

 岡山の生家を痛ましい事件で追われ奈義山の菩提寺に入り、次に比叡山に登って勢至丸から法然房源空となり修行を続け、四十二歳にして浄土宗を開いた法然上人。浄土宗開宗後は自ら比叡山を下り西山へ向かい、その後、東山の吉水の庵(現在の知恩院御影堂の東側あたり)に居を構えました。ここは上人が日常の説法を行なう場所であり、また念仏道場でもありました。

 法然上人が流罪の身となり、四国から大阪箕面の勝尾寺を経由して東山に戻った頃には、流罪以前に住まいとしていた庵が荒廃していたそうです。そこで九条兼実の弟であり、天台座主も務めた慈円が、すでに老境に入った法然上人の身の上を案じて、上人が東山の「大谷の禅房」(現在の勢至堂)に入るよう取り計らいました。建暦二年正月から体調を崩した上人は、同二十三日にこの大谷の禅房で弟子の源智に自らの遺言である「一枚起請文」を与え、同二十五日に静かに息を引き取り、亡骸は東崖上(現在の御廟)に丁重に葬られました。平安末期から鎌倉初期という激動の時代、自らも激しく揺れ動く人生を送った全仏教を代表する天才であるとともに、阿弥陀様のお救いをお示し頂いた一人の偉大なる宗教家が、自らがその「聖なる名」を呼び続けた阿弥陀様自らの来迎を頂きました。阿弥陀様が極楽世界の諸菩薩たちとともに法然上人の枕元に現れた時、法然上人の目には幼い日に別れた母秦氏の懐かしい姿や、心から尊敬した善導大師のお顔も見えたことでしょう。そして上人は合掌してただ静かに頭を下げ、次の瞬間には観音菩薩が手にする蓮台の上にある自らの姿を御覧になり、極楽浄土へと旅立っていきました。

 御影堂の横にある石段を上ると知恩院の中で最も歴史がある勢至堂があります。ここは四国流罪が許され大阪の勝尾寺を経て帰京した最晩年の法然上人が過ごした場所です。ここで法然上人は臨終の瞬間までお念仏をとなえていました。現在の勢至堂は享禄三(一五三〇)年の建築で、ご本尊は勢至菩薩像です。この勢至菩薩像は内面の深い思惟が実によく表現された仏像です。勢至堂の裏手には知恩院歴代をはじめとする多くのお墓があります。私がご生前に大変にお世話になり、「これからも長く研究を続けるように」とお言葉をかけていただいた(故)藤堂恭俊大僧正台下のお墓もこの勢至堂の裏手にあり、知恩院にうかがうと必ずお参りさせていただいております。

 現在の勢至堂の手前の石段を上がると、今も法然上人が眠っている御廟があります。御廟手前の拝殿で法然上人に御線香をあげ、並べてある木魚を打ちながらお念仏をとなえると、法然上人の最期のお言葉である「一枚起請文」の中の「ただ一向に念仏すべし」という一文がどこからともなく聞こえてくるような気さえしてきます。

 法然上人のお念仏は「一声でも阿弥陀様を呼べば、誰でもが必ず往生する」という教えですが、この「誰しもが必ず往生する」という一点にこそ宗教の極致があると思います。上人は人生の悲哀と苦悩の中で「真実の仏教とは何か?」と問い続け、そして人の一生分の時間をかけようやく「阿弥陀様のお救い」にたどり着きました。

 この「阿弥陀様のお救い」こそ、混迷極まる今の時代の中で、その時代の流れに呑み込まれ、あるいは時代の流れに押し流されているすべての人々が一人として漏れ落ちることがない宗教なのです。これこそが「真実の仏教」であり、この「阿弥陀様のお救い」を法然上人は「浄土宗」としてお示しになられたのです。